20年前――1995年1月17日の記憶

神戸photo credit: komehachi888 via photopin cc

20年前の記憶が断片的で曖昧なのは、流れた月日のせいではない。
僕が被災者ではないからだ。
1995年1月17日、午前5時46分52秒。
僕は大阪府枚方市朝日丘町のアパートで眠れずにいた。住んでいたのは一階で、背の高い家具もなかったので長く激しい揺れで何かが壊れるということもなかった。初めてのことなので、揺れがおさまるまでずっと天井を見ていたように思う。しばらくして家族から電話があったが、「大丈夫だったか?」と聞いてきたのが誰だったか憶えていない。

目覚めたら朝9時を回っていた。
出社時間は9時30分。電車でも車でも、通勤には1時間はかかるので遅刻は確定だが、急いで支度をしようという気にはならなかったのは、1月いっぱいで退職することが決まっていたからだ。
社長に辞めることを伝えたのは、最も厳しい時代を一緒に戦ってきた同僚が崩れ落ちるようにして会社を去った前年の夏だ。時を同じくして恋人が理由を告げずに姿を消していたこともあり、失意のなかでのしかかってきた責務を果たすには、逃げ道を用意する以外になかった。
だから僕にとって1995年1月17日は、すでに組織の体をなしていない場所から抜けて自由になれる記念すべき日から数えて13日前だった。

テレビをつけると、神戸が燃えていた。阪神高速道路が射殺された大蛇のように横たわっている。
現実とは思えない光景をしばらく眺めてから、会社に電話をいれた。つながらなかったのか、誰も出なかったのかは定かではないが、その日は午後から取材が入っていたので、出社しないという選択肢はなかった。

大渋滞を覚悟した国道1号線は意外にもいつもと変わらない様子で、大阪市淀川区西中島には1時間程度で到着した。
オフィスは、バブルの絶頂期に竣工した8階建てビルの最上階にあった。毎月の賃料はおろか、フィルムの現像代すら事欠きながら動くに動けず留まっていたその場所には、半年以上もただ働きをしている創業メンバーのデザイナーと、そんな財政状況のなか、僕の後釜として親の反対を押し切って入社した新人女性ライターのふたりがいて、床を埋め尽くした雑誌や書籍の片付けを始めていた。コピー機が上手投げを食らって気絶した関取のように仰向けに倒れているのをみて絶句した。

取引先の出版社から取材中止の連絡を受けた覚えがあるので、電気は使えていたのだと思う。取材予定だったのは大阪ミナミにあった英会話スクール。そんなことをしている場合じゃないという雰囲気だったが、「神戸の生徒がレッスンにこられないから撮影ができない」というのが中止の理由。神戸の生徒がいなければ、予定通りに取材ができたのですが、という編集者の口ぶりが印象に残っている。

神戸市東灘区岡本に住む社長がオフィスに到着したのは、日が暮れてからだったと思う。自宅マンションは倒壊こそ免れたがライフラインは寸断されており、家具もめちゃくちゃになって生活できる状態ではないから、焼け焦げた街を横目に会社へ向かったのだ。「リビングのソファで眠ってしまったから助かった。ベッドで眠っていたら家具の下敷きになってアウトだった」と話していた。

震災当日のことで憶えているのはこれだけ。
犠牲者の名前のなかに元恋人の名前がないことを祈りながら会社近くのセルフ食堂でテレビを見ていたのも、「こんな時に何が取材だと怒鳴られた」と言って新人ライターが泣きながらオフィスに戻ってきたのも、被災地の火事場泥棒がいるという事実に衝撃を受けたのも、社長を車で自宅まで送って瓦礫の山に手を合わせたのも……これからあとのこと。

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